昭和52年08月15日 前夜祭
「おかげは受け徳受け勝ち。」と仰せられますから、おかげを頂かなければつまりません。けどそのおかげの中にも、まあ色々なおかげがございます。一生懸命に祈念をおこなう、言うならば祈念力でおかげを頂く。祈念力と言うても大したものですね、あのスプーンなんかが曲がるというのは、あれはやっぱ念力ですね、テレビなんかで動かない時計が動き出すといったようなのがあります。その人の念力がそういう働きをも、起こす力が生まれてくるんです。
昔の先生方には大変祈念力の強い方がおられました。もう祈念力で人が助かる、もう福岡の初代なんかはもうこの祈念力が、もうこの「表行にかけては吉木栄蔵の右に出る者はおるまい」と、四神様が仰るほどしの表行もお出来になられ、祈念力も大したものでおありになったらしいです。また日頃まあ実意な信心をさして頂いておりますから、まあ言うならけなげな信心をしておりますから、神様がまあ言うならば向こう先を見て蓮根食うて下さると言った様なおかげもございます。
と言うて神様の方が、おかげを下さらずにはおかんと、もう下さらずにはおられないと、言う様なおかげもございます。信心して身に徳を受けて、お徳を受けて頂くおかげというのは、そういうおかげの事だと思うです。だからお徳を受ける信心を愈々しなければならない。一生懸命それこそまあ私共の場合、いつの場合でももう一生懸命それこそ祈りに祈って、お縋りしなければならない事もいくらもございます。
また神様に言うなら顔を立てて頂くと言うか、おかばいの中に蓮根食うて下さって、頂くというおかげもございます。けれども願う所は力を受けお徳を受けて、その力によるおかげお徳による言わばおかげ、これならば神様も喜んで下さり、私共も本当に有り難い勿体無いと言う事にもなってくる。そういうおかげそういう信心を願いとしての信心にならしてもらわなければならない。
今朝から御祈念の時に蓮根の丁度節の所、勿論あそこは食べられませんよね、黒くして真中節から節の所を、こんくらいばっかりとこう切って捨てる所を頂いたんです。で今朝からの言うならば、神を商法にしてはならんという御理解に、言うならば神様を使う信心、言うなら神様から使われる信心でなからにゃいかん。神を使う信心では言うなら神様を、商売人であるなら番頭んごと思うとる。
まるっきり集金人のごと思うとる「どうぞ何処何処に集金に行きますから神様よろしゅうお願いします。」と言うのは、やっぱり神様を集金人のごと思うとるわけです。だから神様に使われる為に、神様が御主人なら私は番頭さんという生き方、そんなら神様が御主人だから、もう神様に任せときゃ良かと言うてこちらが、あぁ手をこまねいておると言う事ではいけない。
そこは良い番頭であれば良い番頭であり、良い女中であれば良い女中であるように、それこそ影日向のない生き方、言うならば主人の目に止まるあの店員はなかなか見所がある、あれには店の一つも持たせてやろうかと主人が思われるような生き方、有り方いわゆる実意丁寧神信心をさして頂いて、神様に使うてもろうて頂くおかげというのは、もうこれは、輝かしいまでの、おかげになるという御理解でした。
お野菜を作らして頂いても私が作るのではない、神様が作って下さる只私は種を蒔いたりまたは草を取ったり、肥料を施したりするだけの事「神様あなたのおかげで」とお礼を申し上げる。そこに神様が「いやぁお前達が一生懸命精進したからじゃ、努力したからじゃ」と「いいえ神様のおかげで」と、あいよかけよの道が開け言うならば、拝み合いの中から生まれてくる所のおかげを、今朝から皆さんに聞いて頂いたんですね。拝み合いの中から、生まれて来る所のいわゆる産みなす信心がそこにあるわけです。
私は今朝からその事を頂いておって、はぁこれは誰々さんが頂きなさらじゃん事じゃ。言うならご信者さんが頂きなさらにゃん、もうこちらはもうそげな、神様から蓮根食うてもらわんでん日頃信心が出けておるから(笑)と言う様なまあ、とにかくまあ惜しい事じゃなぁ。本当に言うなら折角信心させて頂いとる、何かちょっとした事があるともう言うならば嫌な事煩わしい事言うなら、普通で言うなら頂けない所それを合掌して受けていくという生き方、それが愈々成り行きを大事にしていくという生き方だ。
愈々全ての事に御の字を付けて行く頂く生き方だと、知っており分かっておりながら、それが中々出来ん。こういう難儀な問題が、それこそ御免蒙ると、向こうの方へ押しやりたい、そして良かとこだけを頂きたい、神様から蓮根食うて下さるおかげだけを頂き、これでは結局蓮根食うて下さるようなおかげだけなんだ、この節を大事にする、私が昔からあの家の帳場の所に、こういわゆる座右の銘と言うですか私の「節を大切にする人は伸びる」と書いておる。
節を大切にして行くと言う事がです、伸びる人は必ずそういう普通の人が難儀と思うたり、困ったと言う様な事柄を、それを元気でそこを頂きぬいたり、又はそれを有り難く頂きぬいていくという人達の上に、輝かしいおかげになってくるのです。輝かしい繁盛にもなってくるのである。ここをいらん物にしては、切って捨てる様な事ではならない。だから私はそれは出けておるように思うておったけれども、こう言う事を私は今日はもう日々の中に随分言うならば。
嫌な問題とかここはもう面倒くさいとかという所があって、そこを切って捨てるような、生き方がお互いあるんだなぁ私自身にもあるんだなぁと言う事を、今日改めて気づかせて頂いた。今朝からその御理解を頂いてあれは誰々さんじゃなかった私じゃったなというふうに思うた。というのは早々と今度の十月の記念祭の為に、新しい御装束が出来てまいりました。で昨日御装束は出来ましたけれども、冠をかぶって見ておらなかったから、今晩かぶってみようかと私こうかぶってみた、所がなんとガバガバです。
こう手が一本入るごとある、若先生が「いいえあの、見かけは悪うないですよ」っち。ばってんこっちかぶっとる者な気色の悪か、脇から分からんめぇけれども、かぶっとる私としては、どうかいつもこうこうやって扱うとうごたる気がするわけ。これなんかは神様がまあ言うなら蓮根食うて下さっておるおかげだという風に思うんです。かぶってみた今までのはちょっと小さかった、だからどうもその脱いだ時にその型が揺るぐ位にあった、だからやっぱり痛いのである。
だから今度のは心持ち大きくと言うておったんですけれども、今度は外側から、こう取とったんですね、型を。中で取らずに外で取とった。だから今度はかぶってみた所がちょっと大きい。だから問題は自分の心の中にどうも脇から見たら、おかげ頂いちゃるなぁと見えるけれども、自分の心の中には気色の悪いと言う様な物であっては、これはまず神様が顔を立てて下さったり、蓮根を食うて下さっとる、ただおかばいの中にまあようやく出けとったということが分かった。
それを私は今日は午後の、いつも竹内さんがみえて、久富さんと二人で、この調度品かなんかの漆喰類が全部変わってしまうんです、お部屋の。それももう随分遅くなりましたけれども、私がここ立つ時間になってもみえんもんですから、「ならもう繁雄さんあんたと二人でやろうか」と言うて、まあやらせてまあ頂いた様な事でした。バタバタしよる所にこの御簾を下ろして、共励殿で綾部さん文男さん、責任の方達がこう出してから、何か修繕しよりなさいますもん。
そうしたらここの脇殿の二階に、この上げてあった所が、ねずみがかじっとるっち言う。「はぁあんたどうしたこつのあんた、まぁだ使いもせん新しいその御簾にあんた、ねずみがかじっとるてんなんてんまあどうした不調法なこつの」と「どうしてあげなあの脇殿の2階なんかに置くか」と言うておりました。だからあの記念祭前までには、とにかくまあおかげ頂いて、今度今日気が付かせて頂いたからよかった。「とにかくこれをまた新しく布を買って、また付けなおしましょう」文男さんが言う。
「ならもうそうするより仕方ないね」とまあ言うておりました、それで他の布は少し残っておったから他の布でずうっと、まあ伏せをしたように出けておる。こりゃぁまあ私の、言わば信心の油断だという風に思うんです。所が後から分からせて頂いた事は、その御神前のではなくて、この楽室のあの両サイドのあの御簾、だけがかじられておると言う事が分かりました。そんならわざわざ新しゅう変える事はいらんばい、ならちょっと他の金欄の布でしてありますから。
それは目立たんからもうそれはそれで良い、そりゃ良かったなぁおかげ頂いたなぁ。御神前のでなかって良かったなぁ。はぁ自分の信心をかじられたごたる気色がした。所がおかげを頂いて直接神様の前に、使う物ではなかった。この横手のこれであったと言う事が分かって、まあやれやれ良かったと思ったけれども、これなども神様が言うならば、ようやく蓮根を食うて下さって、ようやくまあ間に合うたと言う事になるでしょうが皆さん。そこに至った時にです。
これは今朝から頂いた御理解は、これは信者さんのためじゃない、人じゃないこれは私自身の信心がもう一段と高められる、もう一段進められて、神様がもうそれこそ喜んで下さって、願いもせん頼みもせんことがです。しかもかぶってみたらもうびっしりかぶり心地が良いと言う様なね気色の良いような、言わばおかげを頂けれるように、一段信心を進めて行かなければならんなと。今日ビリグイから手紙がまいりました。
二通一通はあちらの青年学生会から、明日の祈願祭の祝福、お祝いの電報がもう長々と電報でまいっております。しかし私はこの頃から思うて、まぁだ三ヶ月しか経たんのに、青年会が出けたり学生会が出けたりする。まあ何という素晴らしい神様のお働きだろうかとこう思うのです。今日の御理解にはまあ第一天津祝詞と、大祓いがあちら言葉になったっち。どうしてあげな大祓いやらなんやらが、大祓いやらどげな風にしてからあっち言葉に出けたじゃろうかと思うて不思議でたまらんでおるとこです。
あれは祈願詞かなんかならね、普通の言葉でしてあるから、訳が出来るが、大祓いやら天津祝詞がその、こちら言葉に出けたと、今度はその合楽理念の、翻訳にかかるという手紙が来ております。素晴らしい働きであり素晴らしいおかげであると思います。所がね今日だからそれを、分からして頂いたんですけれども、この前の手紙にもある熱心に最近お参りが大変おかげを頂いておる方の、もう医者が愈々難しいと言うておった癌の人が、大変一時はおかげを頂いたけれども。
もうそれこそ眠るような痛みもせずに大往生のおかげを頂いたという、まあお礼のお届けと言うか、まあそう言う事がこの前の手紙に出ておりました。そしたらまた今度の手紙にもそれが書いてある、違うのがなんか、何何さんの弟嫁さんか何かが、その亡くなられたと。それももう本当に神乍ら神乍らなお国替えであった、お礼のお届けをしてございますけれども、やっぱり生まれるという話しは有り難いけれども、亡くなるというのは、いくらおかげの中にあっても、やっぱり寂しいもんです。
これは私末永を含めて、矢張り神様がおかばいの中にある事は勿論ですけれども、蓮根食うて下さっておるおかげであると言う事を思わずにはおられません。ここに一段と神乍らに死んだからお国替えのおかげを頂いたからと言うて、ただお礼だけではなくて、これは取次ぎ者としての、またお詫びもまた改まりも、なされなければならないと言う事を感じました。今朝から頂く色々な角度から頂くその御理解に。
お互いこれはもう日々の中にも言うならば、蓮根の言うならば、節の様なここは食べられない、頂けないと言う所があるんだと、一日の内にも何回も言うなら節があるんだ。この節を大事に頂き貫くとか黙って受け貫くとか、豊かな大きな心で頂いて行く、こういう頂き方をさせて頂いておらんとです、愈々大きな節に当たった時に、そこから折れて言うならば蓮根食うて下さるおかげは頂けても、お徳にならない事が分かりますよね。いかに心行が大切か大事であるか。
いかにも水も漏らさんような心行がして頂いておるかのようにあって、なら今日私のこの冠と言い、この御簾のねずみのかじったと言う事と言い、南米からの便りの中から頂いた感じた事と言いです。愈々持って限りない信心の進展というものが願われる。言うならば、大きな節に直面した時には、合楽の方達は案外、日頃の信心に物言わせて、そこを元気な心で通り、通りぬける様な所がございますけれども、日に日にの言うならば、中に起きてくる、その節とも思われる様な所を、切って捨てる様な所をです。
そこを一つ日頃頂きぬいて行くと言うような信心こそが、愈々水も漏らさぬ信心、水も漏らさぬおかげと言う事になるのじゃないでしょうか。今朝の御理解をもう一遍頂きなおして言うならば、神様から蓮根を食うてもろうてのおかげ。強引に祈りに祈り願いに願って、それこそ地団太踏むようにしてお願いをして、もう神様も渋々下さるようなおかげ。そうではない、成程おかげは受け徳受け勝ちですから、受けなければなりません、願いもしなければなりません。
もう私は良か信心が出けとるから頼まんでん願わんでん、神様が下さるもんだけで満足しとると言うなら、それで仕方が無いけれどもそうではない。そういう信心がそんなら、色々な意味でですやっぱいりますけれども、願う所は矢張り神様も喜んで下さるおかげ。それには私共がお徳を頂いて、頂く所のおかげお徳による所のおかげと、神様も喜んで下さる、氏子も勿体無いと、言うならば拝み合うて頂くおかげ、拝み合うて生まれて来る所の、生みなされて来る所のおかげの頂けるような信心を。
頂きたいもんだと思いますですね。今晩の前夜祭にはぁこれは明日を、大祈願祭を前にして、良い事を私自身分からして頂いたなぁと、今朝から頂いた言うならば節を大切にとはもう、言うなら信心信心の浅かった、もう青年時代から私は是だけには本気で取り組んで来たように思うておったけれども、まぁだまぁだそんな事ではなかったなという。今日一日のまあ様々な事柄の中から、それを感じさせて頂いて。
いやそれを分からせて頂いて、いやあれは信者が頂いた御理解ではなかった、私が今朝から頂いておったんだと、今晩気付かせて頂いて、明日の祈願祭を奉仕さして頂くと言う事は、また一段有り難い言わば祈願祭になりそうに思われるのでございます。皆さんもどうぞ一つ心して明日の祈願祭に言わば詫びる所は詫び、願う所は願わなければなりませんけれども、願いの上にも筋道立った言うならば願いを込めての祈願祭にならなければならんと思うので御座います。
どうぞ。